堀 六平と「わさびーず」の存在の意味と価値堀六平と「わさびーず」は今年で活動40年の佳節を迎えた。六平と、この音楽グループを中心として当時の若者達が音楽創造活動をした一大運動を、単なる道楽活動と評されるならば、あえて論じることもないが堀六平とその仲間たちの大衆音楽文化創造活動は、戦後の日本復興の時代の流れと国家隆盛の礎となって奮闘した団塊の世代の若者たちの青春時代とが重なった歴史の1ページとして注目することができる。
昭和44年。六平は大学のサークル活動や個人で音楽を楽しんでいたメンバーと、「元祖わさびーず」を結成してグループ活動を開始した。オリジナルメンバーは、堀六平、耳塚秀三郎、島方久人。昭和48年にNHKのオーディションを通過した後に中村雅彦が合流して初代の「わさびーず」となった。後に多くのフォークアーチストを輩出した「ヤマハ音楽振興会」もまだ創業していなかった時代で、唯一のメジャーオーディション機関はNHKのみだった。NHK総局初の創作的フォークアーチストとしてのエントリーだった(故白井康幹演芸番組班制作主幹 談)。音楽界のドンといわれた藤山一郎氏に初めてお目に掛かったのもこの時で、これは新旧の接点であり、また未来への分かれ目でもあった。このオーディションを評点トップで通過した「わさびーず」は、やがてプロの道を歩き始めることとなる。
「わさびーず」の音楽活動と、昭和30年から40年頃の音楽事情1960年(昭和35年)以降は、敗戦以来抑圧されてきた若者たちの政治的目覚めの時代でもあった。当時多くの若者たちは、学生、社会人を問わず日本のあり方に疑問を持ち、アメリカとの関係に不満を抱えていた。そして安保条約更新阻止闘争を初め国家に対する社会運動が過激になり、各地で火花を散らしたが、やがてそれも国家権力に押さえられる形で沈静化していった。昭和39年に開催された東京オリンピックを契機に若者たちは高度成長の波に乗り、あらゆる日本文化を謳歌するのである。 当時の社会と音楽事情音楽事情に絞って考えてみる。政治闘争や大学改革などの戦いに敗れた若者たちは、虚無感と失意の中にあり、音楽への思考さえも変わっていった。当時、日本のレコード出版量は1億2千万枚で、アメリカに次いで世界第2位を誇っていた。1961年(昭和31年)の安保闘争に破れた虚脱状態を反映してか、中央集権的に一方的に流れていた音楽が、若者の好みや主張によってレコード業界が迎合する形に変わった。若者はやりきれない気持ちから抜け出そうと音楽に癒しを求めた。無責任時代や、リバイバルカバー曲が一世を風靡し、また巷では歌声運動が盛んになり、歌声喫茶が流行った。「北帰行」や「北上夜曲」「ロシア民謡」など哀調を帯びた曲がブームになったのもこの頃である。また、坂本 九、植木 等などの個性的なアーチストが受け入れられるようになり、テレビでは一見すると明るいが、どこか時代を茶化すようなバラエティ番組の放送が始まった。 |